このコラムは毎月10日マックスホームで発行しているコラムの
一部を抜粋したものです。
気宇壮大
2018/04  vol.198
 新年度を迎えました。東北でも例年より早く桜が見ごろを迎えております。これまで、満開の桜の下で入学式を迎えるなど東北では考えがたいことでしたが、これも地球温暖化の影響なのでしょうか?一方、複雑なのは旅行業界と観光地です。イベントの変更やツアー見直しの対応に追われるなど、思いもよらぬところに影響が出ているようです。
 さて、今年は戊辰戦争から150年の節目の年だそうです。なぜ、この話題に至ったかというと、会津を舞台にした地元仙台が生んだ詩人土井晩翠の「荒城の月」と桜がリンクしたからであります。戊辰戦争は、教科書上の歴史の1頁という認識のせいか、遠い時代のこととばかり思っておりましたが、150年前というとそれ程遠い時代の話ではなかったのです。余談ですが、先日仕事で100歳を超えるご長寿の方とお会いする機会がありました。老いてなお矍鑠としておられ、ほとんどご家族の手を借りることなく日常の生活を過ごしておられます。考えてみれば、その方の若い時分には先の戊辰戦争を経験した方々がご存命だったと思うと、何とも身近な話のように思えてくるのです。
 徳川幕府が260余年の天下泰平を築くことができたのは、何も歴代の将軍が優秀だったからではありません。もともと徳川幕府は領地が少なく、諸大名とバランスを取らざるを得ず、それが政権運営にも影響を及ぼし安寧の時を維持できたとも言われています。即ち、幕府は圧倒的な独裁政権(皮肉交じりに言えば今の安倍政権のような)ではなかったということです。その点からも、幕末の西欧思想ひいては討幕の動きは、もともと島津や毛利の有した独立性が徳川とのパワーバランスに微妙な変化をもたらしたことに直結したものと考えられます。
 明治維新の主役を多数輩出した所謂薩長同盟のおひざ元である九州や山口を訪ねると、東北との文化の違いを痛感します。私の先入観かもしれませんが、西日本出身の経済人や著名人が坂本龍馬や西郷隆盛を崇拝して止まないのは、歴史文化、そして教育の違いとも言えます。少なくとも、私のような生粋の東北人には幕末の志士を敬愛する精神は微塵もありません。これはこの時代を動かした郷土の英雄が存在しなかった点と教育に関係するものと思います。そもそも、東北地方は太古の時代から侵略の歴史を繰り返して来ました。蝦夷としての差別、奥州平泉文化の陥落、そして戊辰戦争による制圧、常に東北は西から攻められ、悲運な歴史を辿ってきたようにも感じられます。特に明治以降の政治・経済・文化への影響力は、他の地域に比較して見劣りするものであったと思うのはあまりにも悲観的過ぎるでしょうか?
 話は戻ります。私の見識の低さか、東北にいながら会津の悲劇を知る機会は極めて少なく、小学校の修学旅行で訪ねた会津若松城(鶴ヶ城の)の天守に祀られた若者の遺影や、飯盛山の石碑を見てその悲劇を想像するなどという知性は残念ながら持ち合わせておりませんでした。
 戊辰戦争とは、明治元年の干支が戊辰であったことら名付けられた鳥羽伏見の戦いから函館戦争の総称であり、会津を舞台にした戦いは会津戦争ということになります。激戦の末劣勢となり敗走する白虎隊が、鶴ヶ城が炎上する様子を見て飯盛山で自害する悲劇は有名な話でありますが、その戦場の惨劇はあまり伝えられておりません。戦争に敗れただけでなく、賊軍としての汚名を着せられた会津藩が最後に辿り着いた場所は、新政府が強制した流刑地である本州最果ての地青森は下北でありました。彼らは斗南藩(北斗七星の南、この世の最北の意味)を名乗り、草を食し時に犬の死骸さえ喰い生き延びたのです。永い間屈辱を味わいながらも東北人の気質なのでしょうか、下野した最果ての地においても藩校を再興し、日本の近代化に寄与すべき多くの傑物を輩出したのです。
 「会津に処女なし」と揶揄されるように、この侵略の歴史は未だ遺恨となっていることは、会津と萩の戊辰120年の節目にも象徴されます。片や「もう120年」、一方では「まだ120年」。筆舌に尽くしがたい侵略の歴史はまたの機会に譲りたいと思います。
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