2021年3月 vol.232

2021年03月10日

 三寒四温とは春先の中国の気候を表したことわざだそうですが、日本でもこの時期になるとよく耳にします。桜の開花が待ち遠しい季節となりましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 

 ところで、先だっての福島県沖を震源とした最大震度6強の地震に驚かれた方も多かったと思います。あの東日本大震災の発生から10年を目前にした日の地震に多くの人の脳裏に3.11の恐怖が蘇ったことでしょう。地震への不安は尽きませんが、多くの研究者の間で一致しているのが、3.11の余震が今後しばらく続くということです。全てを余震と関連付けること自体あまり受け入れがたいですが、歴上繰り返られた巨大地震の特性がそれを証明しているとも言えます。

 

 さて、長くもあり短くも感じられた10年ですが、少しだけ私の当時の記憶をたどってみたいと思います。春を目前にした東北の朝は、穏やかでありながら少しだけ頬を打つような冷たい空気が感じられます。体感的にこの季節になると、あの日の光景が思い出されます。平成23年3月11日午後2時46分の大きな揺れ。前後し鳴り続けた聞き覚えのない緊急地震速報。その揺れは3分弱にも及びました。当時の首相が日本沈没かと表現したように、その揺れはあたりのビルが倒壊するのではないかと思うほどの衝撃でした。私は当日、仙台市郊外の海沿いの土地を確認に行く予定でしたが、急遽、予定を変更しお客様との契約を優先することになりました。今思えば、その偶然の判断が生死さえも分けたのかもしれません。地震はお客様宅で契約締結直後に発生しました。お客様のとっさの判断で、揺れと同時に庭に飛び出し駐車中の軽トラックに無我夢中でしがみついたことを鮮明に覚えています。長い揺れが収まり、家の中は天地をひっくり返したような混乱でした。周辺の建物の中には倒壊した建物も見受けられたため、頭を過ったのは会社の被災状況です。すぐに会社に電話を入れ社員と建物の無事を確認、次に自宅へ連絡、大きな損傷もなく家族の無事も確認が取れました。この時点では比較的電話回線の混乱も少なく、会社までの帰路も大きな渋滞はなかったと記憶しています。安堵と余震への恐怖が交錯する中会社へと急ぎましたが、この後に恐ろしい現実が待ち受けているなど知る由もありませんでした。

 

 夕方にかけ気温が低下し雪が舞い始めました。そして大きな余震が続きました。社員の一人が機転を利かせ食料の買い出しに走りました。もちろん、店舗では停電のため手動で会計を行い長蛇の列ができました。寒さをしのぐため車での待機を余儀なくされ、車内のテレビから徐々に被害の状況が伝えられ、津波の襲来を知ったのはその時です。そのころ、我が家にも漆黒と化した津波が襲来していたのです。後に近くの住人や通りすがりの人など20人程が自宅2階に避難し暖を取ったと聞きました。数日後、津波で行方不明となっていた叔父夫妻の死亡の知らせが届きました。死者15,899人、行方不明者2,526人、福島第一原発の事故など、大きな爪痕を残した東日本大震災の記憶です。

 

 業務上幸運だったことに、本社機能に大きなダメージが無かったこと、毎月10日の家賃送金を終えた翌日だったため大家さんにも迷惑をかけなかったこと、社員が一人も休むことなく翌日以降も出勤してくれたこと、限られた燃料で行動範囲が制限される中、タクシーを手配し管理物件の被害状況を早期に確認できたことなどが挙げられます。後にヘドロと瓦礫に覆われ変わり果てた自宅を目の当たりにすることになりますが、唯一の救いだったのは季節が春へと向かい前向きになれたことでしょうか。そして、多くの支援のおかげもあり想像を超えるスピードで街は蘇り、徐々に不動産需要が戻り始めたのです。その後の震災バブルは今更説明するまでもありません。

 

 震災から10年という節目を迎え、多くの被災地は変貌を遂げましたが、名実ともに復興を宣言するには程遠い状況です。都市部の活況の陰には地方の厳しい現実があります。これはもともと直面していた過疎と大きな関係があります。宅地や復興住宅の整備に反し住民が戻らない地域もあります。巨大防潮堤は人々の安全と引き換えに自然豊かな三陸の景色を一変させるものとなりました。福島第一原発の廃炉には気の遠くなる工程が待ち受けています。また、沿岸部の主要産業である水産業では厳しい経営が続くなど課題が浮き彫りとなっています。本当の復興とは被災者一人一人の心が満たされることで完成するものであり、答えのないテーマなのかもしれません。被災地にとっての10年は節目ではなく通過点なのです。