2021年8月 vol.237
2021年08月10日
残暑お見舞い申し上げます。仙台では、夏の風物詩仙台七夕まつりが規模を縮小し2年ぶりに開催されることになりました。この夏、全国各地で猛暑が続いておりますので熱中症には厳重な警戒が必要です。
さて、新型コロナの感染拡大が止まらない状況です。安心安全のオリンピックのはずが、感染拡大の一因となってしまったことは否定できません。オリンピックによる直接的な影響は少ないにしても、国民の緊張感が途切れ、意識に油断と変化をもたらしたことは間違いありません。何しろ、都道府県をまたぐ移動の自粛を国民に呼びかけておきながら、国境をまたぐイベントを強行するわけですから、タガが外れても仕方がありません。
そんな混乱が渦巻く中迎えた2020東京五輪もいよいよ終盤戦に入りました。今のところ、大きな混乱もなく日本人のメダルラッシュに沸く日々が続いておりますが、連日、過熱する五輪報道に、いつの間にか人々の関心がコロナから五輪にすり替えられた印象さえ受けます。
ところで、開幕式はどのように映りましたか?辛辣な意見や酷評も多く見受けられましたが、言うは易しで舞台裏は大変だったことでしょう。何しろ開催さえも危ぶまれ、関係者の解任や辞任が相次ぐ中での準備だったわけですから。しかし、このような事情を割り引いて評価しても、サブカルチャーなるものが果たして世界に発信すべき我が国の文化だったのか甚だ疑問でなりません。過去の五輪の開会式と比較してもチープな印象は否めず、スケール感においても見劣りするものでありました。日本らしい演出の仕方はいくらでもあったと思うのですが非常に残念です。
我が宮城県では、サッカーの試合が男女あわせて10試合行われました。こちらも最後まで有観客の是非をめぐり混乱しましたが、知事の決断により有観客での開催となりました。これにより、どれだけの効果と感染リスクがあったのかは分かりませんが、世論の圧力に屈しなかった知事の政治家としての信念は評価に値すると言っていいでしょう。他方で、県境をまたぐ移動自粛を呼びかけざるを得ない現実とのギャップに、置き去りにされた復興五輪の理念が虚しくも感じられます。
何だ彼んだありましたが、理屈抜きに言ってアスリートの姿には勇気と感動をもらいました。メダルが有力視されていた選手の波乱など様々なドラマが繰り広げられた中で、新種目に代表される10代の若きアスリートの活躍は目を見張るものがありました。若きメダリストの誕生は、幼少期からスポーツに打ち込める環境が整う我が国の豊かさの象徴と言えます。そして、結果も大事ですが、試合後のコメントで印象的だったのが開催へ漕ぎ着けたことへの周囲への感謝の言葉です。ほとんどのアスリートが開口一番に伝えています。特に日本のお家芸である柔道での、死闘を繰り広げた後に互いを称えあうシーンや、畳の上であえて勝利の感情を押し殺すシーンは正に武士道そのもと言えます。勝者があれば敗者があり敗れた相手への最大限の敬意が込められた振る舞いです。
惜しまれるのは、平時において大会が開催されていたならば、どれだけの盛り上がりを見せていたかという点です。私自身、この状況下での開催を歓迎できませんでしたが、平時であったならば話は別です。海外から多くの要人や観光客、そして今大会の倍以上の関係者が訪日するわけですから、それはそれは大変な経済効果だったことでしょう。
宴の後の静けさという例えがありますが、我々を待ち構えているのは、現実逃避されてきた途方もない代償です。多くの犠牲の上に成立したと言って過言ではない今回の東京五輪。アスリートには表現の場が与えられましたが、世の中には度重なる緊急事態宣言で疲弊している方々が沢山います。一人一人にドラマがあり、みんな頑張っているのです。総理が掲げる自助にも限界があります。国会では厚労大臣が平時ではないと繰り返し答弁していましたが、有事にしてしまった政治の責任は大きいと言わざるを得ません。五輪強行のエネルギーをコロナ対策に注いでもらいたいものです。 すみません。ワイドショーの見過ぎでした(笑)。